幸せ人間コンテスト 〜幸せの定義について考えたら「空(くう)」が重要だった話
2017/07/19
「私は本当に幸せなのだ」「いや俺のほうが絶対に幸せな人間だ」
先日の私とパートナーの会話である。
これだけ聞くとまるっきりバカみたいだが、この言葉にまったく甘い意味はなく・・・(二人でお互いにのろけているわけではないし、そんな時代はとうに過ぎた)
純粋に、「幸せ人間コンテスト」を競っていたのです。
「我こそが、常に幸せを感知し続ける“幸せ体質”な人間である」ということを。
ところで幸せの定義とは
それには、まず幸せってなんぞや?というところから定義しなければならないのですが。
私たちが話している中で定義した「幸せ」とは、例えば「オイシイもの食べて幸せ」「あなたと一緒になれて幸せ」というイベント的なものとは、全く質が違うのです。
言うなれば、
心に波風の立たない無風状態が、常に続いている状態。
そしてその状態は、常に(そこそこ)楽しい。
・・・ということかな。
簡単にいうと私の考える幸せとは、ぼんやりと穏やかで明るく前向きであること。そしてその状態が常に続いている状態のことです。
(あ、もちろん瞬間最大風速的な「最高!」というシアワセも大事だけどね)
ちなみに、そういうイイ感じの心持ちの人間に・・・自分はなってきていると思うのです。年齢と経験を重ねて。
私は自分自身を「幸せ」な状態で保つのが、だんだん上手くなっています。
自分が「幸せ名人」である自信はほどほどにあるわけです。
「幸せコンテスト」は執着のない者が勝つ
しかし、我がパートナー君のことをふと考えてみると、この定義での「幸せ人間コンテスト」はコイツに負けるな、いや、完敗だと思いました。
なぜかというとパートナー君は私から見ても、惑うことがない。常に穏やかに楽しそうなのです。ちょっと坊さんみたいです。
楽しむといってもヒャッハーと楽しんでいるわけではなく・・・すごく説明するのが難しいのだが、彼は、
○執着がない
○空性がある
ここが、私には真似できない部分なのです。
私は何かあると惑いますからね。
空性のある人はある意味最強
「空」は仏教用語で、無我であること・無常であること、執着から自由になること・・・のような広い意味で使われる概念。
理解するのが難しい概念なのであくまで私の感覚的な理解ですが、パートナー君は生まれつき「空性」がちょっとある人間なのを感じます。
淡々と生き、淡々と楽しそう。
↑周りからみると淡々としているように見えるが、本人の中では常にいろんなことが楽しいそうです。
悲しい出来事、例えば人が亡くなったりしたら勿論悲しむが、そんな時すら淡々と前を向いている感じ。
極端に言うと、私が他に男を作っても「そうか。仕方ないね。」と言うでしょう。
私が死んだら・・・さすがに苦しんで悲しむでしょうが、私の次にやってくるものを受け取ろうとするでしょう。
そんな人間には、幸せコンテストでは、勝てない。勝てないよ・・・!
私はさすがにストレスを抱えた時には、心が結構揺れて、物事に執着してしまいますからね。それでもアッサリしているほうではあるが。
幸せの定義は人それぞれ(結論丸投げかーい)
もちろん、
そんな坊さんのような人生はつまらない。
何だか達観しすぎていて嫌だ。人間味がない。
もっと思い切り泣いて笑って生きることこそ人生の醍醐味。
そういう考えもあると思います。
それに社会で出世する抜きん出たタイプの人は、空性なんてないでしょうね笑。もっとギラギラしてるし、ギラギラも悪くない笑。
でも・・・
あらゆる場面で、「執着をなくす」という技を体得するのは、このあとの人生を行きていく上で非常に有効なんじゃないかと思います。
「コンペ落とした」「それもよきかな」
「お金なくした」「よきかな」
「会社つぶした」「よきかな」
・・・もちろん、無くしたり潰したりする前に、ちゃんとベストを尽くす前提よ。
いま、心が落ち着かなく、不幸だ不運だと考えがちな人は一度、執着を意識的に捨ててみることをオススメします。
それでダメなら心療内科へGo☆ ←おい
最後は、幸せの定義は人それぞれ。
だけど「最悪なことが起こったときにどれだけ心を保てるか」は、生きる上で重要かもしれません。
(おしまい)